黒茶は、お茶の仲間ではありますが、その製法や発祥において緑茶や紅茶とは一線を画すものです。その土地でしか作られていないものもあり、同じ黒茶に属していても、作り方が全く違うことも多々あります。
日本にも独自の黒茶はありますが、お隣中国には、悠久の歴史の中で培われた独特の黒茶がたくさん存在しています。今回は、中国の黒茶について詳しく見ていきたいと思います。
【復習】黒茶の定義
まず、黒茶の定義について簡単に復習しておきます。
茶(お茶)は、茶の樹の葉を原料とする飲み物(or 食べ物)であり、従って、緑茶、紅茶、ウーロン茶など、全て原料は同じです。麦茶やどくだみ茶など、茶の樹の葉を原料としない「○○茶」と名付けられているものもありますが、厳密にはこれらは、茶(お茶)ではありません。
※定義は時と場合により変わりますので、植物を原料とした飲み物(or 食べ物)を「広義お茶」、茶の樹の葉を原料とした飲み物(or 食べ物)を「狭義お茶」とする考え方もあります。
お茶(狭義お茶)を「発酵度合」で分類すると、以下の3種類に、まず分類できます。
・非発酵茶(不発酵茶)・・・緑茶
・半発酵茶・・・ウーロン茶
・発酵茶・・・紅茶
緑茶は発酵させないので「非発酵茶」、紅茶は発酵させるので「発酵茶」、ウーロン茶は紅茶ほど発酵させない(発酵を途中で止める)ので「半発酵茶」というカテゴリーに属します。
注意点として、ここで言う「発酵」は、“発酵ではなく酸化”です。
一般的に発酵と言うと、酵母や乳酸菌のような微生物が、米や乳製品などの有機物に作用した結果、米が酒になったり、牛乳がヨーグルトになったりする変化を指します。
一方、お茶で言う「発酵」は、茶葉に含まれるカテキンなどの成分が酸化する現象のことを指します。酸化は化学変化であり、微生物は介在しないので、一般的(化学的)な意味では発酵とは言いません。しかし、お茶業界では昔から習慣として、「発酵」と呼ばれています。
次に、ややこしいですが、茶の樹の葉を、微生物で発酵させたお茶も存在します。つまり、一般的(化学的)な意味の発酵をさせたお茶です。これを「黒茶」と言います。日本人になじみのある黒茶としては、プーアル茶が挙げられます。
まとめると以下の通りです。
・非発酵茶(不発酵茶)・・・緑茶
・半発酵茶・・・ウーロン茶
・発酵茶・・・紅茶
・微生物発酵茶・・・黒茶
再掲ですが、「半発酵茶、発酵茶」は、「発酵」という文字が入っていますが、一般的(化学的)な意味では発酵させていません。一般的(化学的)な意味で発酵させているのは「微生物発酵茶」だけです。
なお、「微生物発酵茶」という表現は一般的には使われず、黒茶が所属するカテゴリーは「後発酵茶」が一般的ですが、ややこしさが更に倍増すると考え、「後発酵茶」という表現は出さずに説明しました。
中国におけるお茶の始まりと黒茶
四川省から中国全土、そして西北地域へ
飲料として世界最古の歴史を持つ「茶」は、中国が発祥の地であると言われています。神話では、4000年前に神農が薬用として食べたとされていますが、実際、2000~3000年前の四川省では、既に茶を飲用するようになっており、唐代(618~907年)には生活の中に習慣として溶け込んでおり、そこから中国全土に広まっていきました。
喫茶の習慣は定着し、更に盛んになりました。需要が増えるにしたがい、茶の生産地も四川省から雲南省、湖南省、浙江省、安徽省など14の省を含む地域まで広がり、当然ながら生産量、流通量も増えました。
茶の経済性に目を付けた朝廷が茶税をかけるようになると、茶は国の経済の一端を担う重要な作物となりました。
経済面だけではなく、茶の文化も唐代に目覚ましく発展しました。文学の世界にも多大な影響を与え、この時代には茶や喫茶をモチーフとして扱った詩などが多く作られています。
唐代には、チベット、モンゴルなどの地域にも茶が伝えられました。これには唐の皇女・文成公主が、641年に吐蕃(現在のチベット)国王・松賛に輿入れした際、持参した漢族の品々の中に茶が含まれていたことが、大きく影響しています。
やがて、チベット、モンゴルなどでも喫茶の習慣は定着し、茶は彼らにとっての生活必需品になりました。
茶馬貿易の始まり
チベット、モンゴル、ウイグルを含め、中国西北地域に暮らす少数民族にとって、茶は貴重なビタミン源となり、日々の栄養源としても欠かせないものとなりましたが、この地域は低温少雨で茶の栽培には向いていませんでした。
そのため、西北地域の人々が茶を得るためには、茶産地との交易に頼るしかありませんでした。幸い、西北地域は駿馬の産地として名高く、馬と茶を交換することで茶を安定的に得ることができました。
これが茶馬貿易の始まりであり、756~758年頃には行われていたと言われています。宋の時代(960~1279年)、茶馬貿易の規模は拡大し、やがて「権茶(チェンチャ)法」によって茶は専売制となりました。
茶の流通を管理したのは茶馬司と呼ばれる役所で、茶馬貿易はもちろん、茶葉の収集から運搬まで、茶の流通の全てを管理しました。茶馬貿易における馬と茶葉の交換比を決めるのも茶馬司の仕事でした。
比率は馬と茶葉の需要と供給量の増減によって変わりましたが、上等の馬1頭で200~250kgの茶葉、下等の馬ならば100~140kgの茶葉と交換されていました。
茶馬貿易は年に1~2回行われ、最も多い年で年間15000~20000頭の馬が茶葉と交換され、国の財政を大いに助けました。また軍隊には馬を豊かに供給することができるようになり、西北地域との経済的、文化的な交流を深めることになりました。
しかし、あくまでも茶馬司の管理下での交易である以上、庶民が自由に売り買いすることはできなかったこともあり、茶農家も生産に意欲的にはなれず、茶生産そのものの発展にはあまり良い影響を与えなかったという側面もありました。
茶馬貿易は、その後、元の時代(1279~1368年)に一時廃止された後、明王朝(1368~1644年)で復活し、清代(1644~1911年)まで続くことになりました。しかし、西部からの種馬により、中国国内でも馬の生産が可能になると、茶と馬の交換である必要性はなくなってきました。
馬に代わる茶との交換品としては、羊毛や麝香(じゃこう)、鹿茸(ろくじょう)などの特産品が使われ始め、やがては貨幣と交換するようになってゆき、雍正皇帝最後の年となる1735年には、約900年の歴史を閉じました。それと共に朝廷による茶葉専売も終わり、自由貿易の時代が到来することになります。
のちの黒茶消費地「西北地域」と「茶馬古道」
茶に含まれる栄養は砂漠に暮らす民族にとって欠かせないものであったため、西北部の少数民族のほとんどが茶馬貿易に参加していました。
モンゴル族、チベット族、ユイグー族、ウイグル族、フイ族などが、それぞれの居住地であるモンゴル、チベット、甘粛、新疆、寧夏、河南、青海などから、茶産地を目指して「荷駄隊」を組み、長ければ半年以上にわたる交易の旅をしました。
荷駄隊の規模は様々で、商人や馬丁(ばてい)、飯炊き、警備員などが数百人のものから数千人のものまであり、馬、ロバ、ラバが50~100頭、大きな荷駄隊では1000頭にまで至ることもありました。
多くの人や動物、モノが移動すれば、その地域の経済活動も活発化します。彼らの通り道は交通路として整備され、町が生まれました。「茶馬古道」の始まりです。
茶馬古道は、四川や雲南などの茶の産地と消費地である西北地域を結び、果てはロシア、モンゴルや東南アジアまでに至る交易路です。似た背景を持つシルクロードと並び、長い年月を通じ、経済、文化、政治などあらゆる面から中国の歴史において大きな役割を果たしました。
1950年代に入ってからは、チベットへ通じる道路や鉄道の建設が進み、交通網が整備されました。しかし、それでも茶馬古道の文化的重要性は、揺らぐことはありませんでした。その自然環境や刻まれてきた歴史、信仰などを含め、様々な面から、今なお人々の心を惹きつけて止みません。
シルクロードと同じように、茶馬古道も1本の道というわけではありません。中でも有名なルートは、雲南省プーアルから大理、麗江、中甸(2014年よりシャングリラ市)を経てチベットに至るルートと、四川省雅安を起点として康定を通ってチベットに通じ、そのままチベットを抜け、ネパール、インド、ブータン、ミャンマーに至るルートの2本です。
その他にも、四川省から北に向かうもの、甘粛省、青海省などに通じる道がありました。どのルートも多くの景勝地、史跡を通っています。
麗江は世界文化遺産都市ですし、シャングリラ市は古寺や美しい峡谷で有名な土地です。他にも、古都として知られるラサやヤルザンプ川の大峡谷、古い街並みが多く残る剣川県なども茶馬古道の通り道です。
中国政府は、茶馬古道の歴史的価値や自然環境を観光資源として改めてとらえ、再開発に力を入れようとしています。
団茶、磚茶から緊圧茶、そして黒茶の誕生へ
喫茶の習慣が広まり、定着した唐代ですが、この頃に飲用されていたお茶は、現在のような茶葉の形ではなく、固めて成型された固形のお茶でした。
唐代より前、三国時代(220~280年)には既に作られており、「餅茶(びんちゃ)」、「団茶(だんちゃ)」と呼ばれていました。当時は茶葉を蒸したり茹でたりした後に、ついて固め、丸い餅のような形にして乾燥させたものでした。
唐代に入ると、製法は幾分か改良され、少し複雑になりました。茶聖とも呼ばれた陸羽はこの時代の人ですが、その著書「茶経」の中で団茶の製法にも触れています。
それによれば、収穫した茶葉を蒸熱、叩いて固めるところまでは変わりませんが、その後に1度炙り、できた団茶を紐で串刺しにして包んで乾燥させるという3つの工程が加えられています。
団茶の製法はその後、唐から宋代にかけて更に進化し、見た目にも美しい贅沢な品も作られるようになりました。唐、宋の両朝廷への献上茶「貢茶」に使われた「龍団鳳餅茶」は龍や鳳凰の姿が刻まれた鋳型を使って作られた特別な品でした。
「大観茶論」には、宋の徽宗帝(1082~1135年)の言葉として、「龍団鳳餅、名は天下に冠たり」と記されています。
団茶、餅茶の最盛期は宋代で、次の元の時代になると、茶を固めずに煎じて飲む、現代のお茶とほぼ同じスタイルである「散茶(さんちゃ)」が主流になっていきました。しかし、この団茶、餅茶の製法は完全に廃れることはなく、現代にも続く「緊圧茶」として残されていきます。
緊圧茶は茶葉を蒸圧処理で押し固めて成型したお茶です。成型の型は様々で、その形によってレンガのような形ならば「磚茶(たんちゃ)」、丸い餅の形なら「餅茶」などと言うように呼び名が変わります。
成型したお茶は、茶葉そのままよりも運びやすく、長期保存も効き、あらかじめ同じ大きさに成型されているので計量の手間もありません。そのため、少数民族の暮らす西北地域などに輸送するのに大変都合の良いものでした。
これらの地域は中央に対して辺境と呼ばれていたことから、緊圧茶を辺境のお茶として「辺茶」と呼ぶこともありました。
緊圧茶を最初に作るようになったのは、チベットの隣に位置する四川省でした。現在は緊圧茶といえば黒茶ですが、当初は緑茶を蒸熱、押し固めて磚茶を作っていました。
この蒸熱後の茶葉を積み重ねたまま20日ほど置いて変化したのが、この地域における黒茶の発見であり、始まりであったと言われています。
こうして1074年頃に発見された黒茶の製法は、需要の高まりとともに研究され、16世紀に入ってから湖南省で完成されました。この頃には、黒茶の需要は既に四川省における生産量を上回っており、湖南省でも作られるようになっていたためです。
清代に入ると黒茶の需要は更に高まり、生産地域も拡大していきました。やがて四川省産の黒茶はチベットとその付近に暮らすチベット族が消費し、湖南省産のものは甘粛省、青海省、新疆区、陜西省などで消費されるようになり、その後雲南省、湖北省などでも生産されるようになると、それらはチベットや内モンゴルに出荷されるようになりました。
黒茶の産地
中国の茶産地の総面積は約200万平方キロメートルと非常に広大です。チベット高原以東、秦嶺、淮河以南の20の省や区、直轄地で茶を生産していますが、その中で昔から黒茶の生産が行われていた伝統的産地は、雲南省、四川省、湖南省、湖北省、広西区の5つです。
黒茶の代表格プーアル茶のふるさと雲南省
雲南省は中国南西部に位置し、豊かな自然環境に恵まれた地域です。自生する植物の種類は非常に多彩で、「植物の王国」とも呼ばれます。年間の平均気温は15~18℃、適度な雨量があり、茶の樹の成育にも大変適しており、野生の茶の樹が自生しているのが多く発見されていることでも知られています。
瀾滄江や怒江、元江の各河川流域に広がる森林地帯では、野生の茶の樹の大樹が約30か所で発見されており、皆かなりの古樹です。中でもモウ海県で見つかった「茶樹之王」は樹齢1700年以上、「南糯山大茶樹」は樹齢800年で栽培型の古樹としては最古です。
※栽培型:茶の樹の古樹の分類の1つ。他に野生型、遷移型がある。
野生の茶の樹は樹高も高くなり、「茶樹之王」などは32.1mの高さを誇り、瀾滄の「邦威大茶樹」のように、中には20世紀末まで茶摘みが行われていたという古樹もあります。
黒茶の代表格として知られるプーアル茶(普洱茶)は、雲南省が原産です。元々「プーアル(普洱)」は雲南省南部にある地名で、瀾滄江の流域で作られた茶が集められた古い茶葉市場があった場所でした。
この市場に集められ、取り引きされていたお茶が、次第にその地の名を冠して「プーアル茶」と呼ばれるようになったのが始まりです。つまり、プーアルに集められたお茶、プーアルで取り引きされたお茶ということで、その名が地名に根差したブランドのようなものになって今に至ります。
日本の越前ガニや松阪牛などと似たような成り立ちと言えるでしょう。なお、古くは「プーアル茶(普洱茶)」を略して、「普茶(プーチャ)」とも呼ばれていました。
12世紀半ば、南宋の時代に李石によって書かれた「続博物誌」には、唐代(618~907年)にはチベットの少数民族の間でプーアル茶が飲用されていたという記述があり、プーアル茶の始まりがかなり早かったことがうかがえます。
当時は生産地が国境近くの不便な土地であり、また生産量も少なかったため、市場に流通する量はごくわずかでした。
産地が拡大し、生産量が増えたのは明や清の時代で、生産、流通量が増えるに従い、品質や味も良くなりました。清代にはプーアル茶人気が高まり、その名も広く知られるようになりました。
1799年に出版された「滇海慮衡誌」によると、この時代にはプーアル茶生産者は数十万人となり、年間生産量は500~7500t、そのうち70tが貢茶として朝廷に献上されました。流通経路も商人たちによって拡大され、各地に出回るようになりました。
清の康煕帝(1662~1722年)の治世では、茶馬市を北勝(現在の永勝県)から麗江に移したため、麗江から景東、思茅に向かい、茶や馬を運ぶ荷駄隊が列をなし、年間の貿易量は2500tにのぼりました。
茶葉の輸出はこの地域とチベットの経済的な結びつきを深め、プーアル茶など黒茶を主とする緊圧茶の輸出は現在にまで至ります。
今も昔も雲南地域にとって、お茶はチベットだけでなく他の地域に向けた輸出品の中でも大きな存在です。清の乾隆帝の頃(1736~1795年)、雲南からミャンマーに茶を輸出したという報告が残っています。
インドやカンボジア、タイからもプーアル茶の買い付けに商人たちが訪れるようになり、プーアル茶は東南アジアでもメジャーなお茶になりました。
雲南省の省都でもある昆明は1904年に通商都市になり、1910年にはベトナムとの間に鉄道が開通しました。経済的な交流も当然活発になる中、プーアル茶は正式輸出品となり、更にその名を広め、消費地も拡大していきました。
雲南省プーアル茶の現在の輸出量は、年間1万tを超え、お茶の中では最大の輸出量を誇ります。
雲南省では、プーアル茶以外にも、紅茶「滇紅(てんこう)」や緑茶、ジャスミン茶も生産されており、2001年の総生産量は約8万tにのぼりますが、そのうち2万t近くはプーアル茶をはじめとした黒茶です。
多くの記録に残る、お茶発祥の地四川省
四川省もまた、茶産地としては最も古いものの1つであり、雲南省と同じく野生の茶の樹が多く発見されています。四川省で古くから茶が作られ、飲まれていたことは、文献や古い記録からも知ることがきます。
東晋(317~420年)時代の四川史学者・常璩が著した「華陽国志・巴志」には、紀元前1066年頃、巴蜀の国々から殷の紂王を討伐した周の武王に、献上品としてお茶などの生産品が贈られたという記録があります。
※巴蜀:四川省の地域を指す呼び名
これは既にこの時代、お茶が四川を代表する生産品であったことを示す他、お茶が献上品、貢物として使われた最初の記録でもあります。
また、前漢時代の文人・王褒が書いた戯文「僮約(どうやく)」の中に、武陽で茶を購入する、茶を煮る、茶道具を洗うなどの記述があり、今から2000年以上前に四川省では茶を飲む習慣があり、市場で茶が売り買いされていたということが分かります。
茶の製造や加工が行われていた記録は、魏(220~265年)の時代に編纂された辞典「広雅」に残されています。
茶を作っている地域や製法から飲み方までが書かれており、どのように保管されていたかや、好まれた味付けなども知ることができます。当時は団茶、餅茶が主流のため、今とはだいぶ違う飲み方です。
四川省で黒茶が生まれた背景には、唐、宋の時代に盛んだった茶馬貿易があげられます。輸送にも適した緊圧茶が、この地域で盛んに作られ、四川省、陝西省や甘粛省には茶と馬を取り引きするための市場も設置されました。
朝廷による厳しい管理のもと、緊圧茶を作る茶農家は賦役を免除され、茶専門の農家が増えていきました。
緊圧茶は以後20世紀半ばの中華民国の時代まで、この地域で生産される茶の5割以上を占めました。当初は緑茶も多く加工されていましたが、明以降、散茶が主流になる中で、緊圧茶として加工されるほとんどが黒茶となっていきました。
四川省の緊圧茶は、南路辺岸茶と西路辺岸茶の二つに分けられますが、これは清の乾隆帝の時代に導入された引岸制(インアンズー)によるものでした。引岸制というのは、各種類の需要と供給のバランスをとるために、茶の種類によって買う場所、売る場所を決めるものです。
南路辺岸茶と呼ばれるのは、産地は雅安、楽山で、当時は6種類ありましたが、現在も生産されているのは4種類で、うち多く作られているのは康磚茶(こうたんちゃ)、金尖茶(きんせんちゃ)の2種類です。残りの2種、毛尖茶(もうせんちゃ)、茅細茶(やーしーちゃ)も生産はされていますが、量は少なくなっています。
一方、西路辺岸茶は5種類あったうち、今日では茯磚茶(ふくたんちゃ)と方包茶(ほうほうちゃ)が残るのみです。
緊圧茶の種類は減ったとはいえ、四川省は今なお中国の主な茶産地の1つです。茶園の総面積は10万haあまりに及び、総生産量は約45000tです。そのうち黒茶は1万tあまりで、他は緑茶、紅茶などが占めます。特産高級茶も多く、蒙頂茶(もうちょうちゃ)、峨眉毛峰(がびもうほう)などが銘茶として挙げられます。
黒茶生産量1位となった湖南省
湖南省もまた、茶の生産の盛んな地域です。前漢時代(紀元前206~23年)の遺跡「馬王堆」で発見された木牌に記された「檟一笥」という言葉から、この時代には既に茶が栽培されており、副葬品として選ばれるほどに、日常生活に浸透していたということがうかがえます。
※馬王堆:湖南省長沙にある漢時代の墳墓
唐代、湖南省の衡州(現在の衡陽)、岳州(岳陽)で作られていた団餅茶はよく知られており、貢茶として朝廷に献上されていたほどです。
黒茶の生産が始まったのは、16世紀初めで「安化」という地域でした。その後生産量は年々増え、それまで生産量トップであった四川省を抜きました。この地で作られた黒茶は、主に現在の甘粛省、青海省、新疆ウイグル自治区、陝西省、山西省、ロシア方面で消費されました。
現在も茶の生産量は約56000t、うち黒茶は約2万tです。黒茶の中でも茯磚茶の生産量が一番多く、その他には花磚茶、黒磚茶、花巻茶、天尖茶、貢尖茶、生尖茶が生産されており、全部で7種類もの黒茶が生産されています。黒茶の他には、緑茶や紅茶、黄茶が作られています。
茶聖のふるさと湖北省
茶聖とうたわれる陸羽のふるさとは、湖北省の天門県であり、また神農が茶を発見した場所もまた湖北省の地であったと伝えられています。三国時代には既に茶が作られており、唐時代には茶産地としても名を知られていました。
現在の茶の生産量は年間5万t近くで、銘茶として有名なのは緑茶では「恩施玉露(おんしぎょくろ)」、紅茶では「宜紅工夫(ぎこうくふう)」や「米磚茶(まいたんちゃ)」、そして黒茶では「老青茶」です。
美しく豊かな自然が育む広西区のお茶
広西区は、美しい河川や特殊な地形を擁する景勝地です。「桂林の山水は天下に冠たり」と言われるほどですが、「奇茗は春山を蓋い、茗香は象州に布す」ともうたわれるだけあり、茶産地としての歴史も古く、象州の地名は「茶経」にも登場します。
※茗:茶のこと / 春山、象州:広西区の茶産地
代表的な黒茶は「六堡茶(ろっぽちゃ)」で、六堡というのは広西区にある地名です。
黒茶の安定した需要と供給
中国国内において、黒茶は長年にわたり需要、供給ともに安定した経済的に優秀な食品で、この傾向は政権の交替や経済活動の好不調にも左右されることはありませんでした。
茶類販売量では1977年までは常にトップの座を守り続け、1963~1964年には国内におけるお茶の総販売量の半分以上を占めるほどでした。1965年以降は緑茶や紅茶など、他の茶類に押されて徐々に割合を減らしていき、現在の年間消費量は4~5万t程度と言われています。
ただし、元々黒茶の消費量の多い、少数民族の暮らす西北部地域ではその限りではありません。チベット自治区における1人当たりの黒茶年間消費量は約10kgと、他の地域に比べて格段に多く、青海省、内モンゴル、新疆ウイグル自治区などでも同様の傾向が見られます。
少数民族には、民族ごとにそれぞれ異なる喫茶習慣や嗜好があり、彼らを主消費者とする黒茶はそれに合わせて発展してきたことから、結果的に多種多様の黒茶が生まれ、黒茶の種類ごとにそれぞれ決まった生産地と、それに対応する消費地を持つことになりました。
形状 | 主要 生産地 |
名称 | 主要消費地 |
---|---|---|---|
緊圧茶 | 湖南省 | 茯磚茶 花巻茶 花磚茶 黒磚茶 |
新疆ウイグル自治区、イスラム教のフイ族居住地域(青海省、甘粛省 etc.) |
天尖茶 貢尖茶 生尖茶 |
陝西省のフイ族居住地域 | ||
湖北省 | 青磚茶 | 内モンゴル自治区、モンゴル族の少数民族居住地域 | |
四川省 | 康磚茶 金尖茶 |
チベット自治区、チベット族居住地域 | |
方包茶 | 青海省、甘粛省のチベット族居住地域 | ||
広西区 | 六堡茶 | 広東省、広西区、香港、東南アジア、日本 etc. | |
雲南省 | 緊茶 七子餅茶 方茶 沱茶 |
チベット自治区、雲南省の各部族居住地域、華僑が多い東南アジア、香港、日本、フランス、イタリア etc. | |
散茶 | 雲南省 | プーアル茶 | 雲南省、香港、台湾、東南アジア、日本 etc. |
※雲南省で作られている「緊茶、七子餅茶、方茶、沱茶」は、全てプーアル茶を原料とするため、単に「プーアル茶」と呼ばれることもある。
※中国には50以上の少数民族が存在し、国民全体の人口の8%を占める。そのうち人口の多い少数民族は、モンゴル族、チベット族などである。
輸出される黒茶
黒茶は19世紀末頃から輸出されていました。主消費者である少数民族が多く暮らしていたのが中国の都市部ではなく西北部や国境近くなどの辺境地域であったため、居住地域が国境をまたいでいたこともあり、やはり輸出先の国や地域も、黒茶の種類、産地に対応しています。
例えば湖北省、湖南省の黒茶はモンゴルやロシア、四川省のものはブータンやネパールへ、決まった産地のものが決まった国に送られています。
ただ、プーアル茶だけはブームが起きたこともあり、他の黒茶よりも輸出先が増えており、元々飲まれていた東南アジア諸国に留まらず、日本やロシア、フランス、イタリアにまで輸出されるようになりました。
また、近年では広西区の六堡茶も輸出されるようになっています。
かつてはお茶を作ることのできなかった中国西北部でも、チベット東部の東久、墨脱、察隅などの海抜の低い地域では、茶園が作られるようになり、良質なお茶を生産しています。
黒茶を世に知らしめたプーアル茶ブーム
千年の歴史を持ち、中国の歴史や文化に大きな関わりを持ってきたはずの黒茶ですが、主な消費者が中国の辺境地に暮らす少数民族であり、彼らにとっては嗜好品と言うより必須栄養食品であったことから、政府からは生活必需品と認識され、その需給のバランスや流通経路は国策によって厳重に守られてきました。
その結果、安定した消費量、供給量がありながら、都市部にはほとんど流通することなく、辺境で飲まれる「辺茶」として表舞台に登場することはありませんでした。その状況を一変させたのが、20世紀末から21世紀初頭にかけて巻き起こったプーアル茶ブームです。
ブームの始まりは香港や台湾、広東省のプーアル茶愛好家たちで、そこから北京、上海などの緑茶文化圏や紅茶文化圏に波及し、2006~2007年にはプーアル茶の取扱量は急激に増えました。
香港などではそれ以前からプーアル茶を飲む習慣がありましたが、ブームにまでなった理由は主に2つ挙げられます。
1つは、ワインの様なビンテージ感です。緑茶など他の茶葉とは違い、プーアル茶は寝かせることで価値が上がり、古い物ほど貴重であるとされています。
数十年以上の古い茶葉になるとかなりの高値が付き、いわゆるビンテージ付きプーアル茶として取引されるため、投資対象にもなります。「飲める骨董品」とも呼ばれ、コレクターも増えました。
もう1つの理由として挙げられるのが、この頃に広まった健康志向です。経済的発展により豊かになった人々が、食から健康を考えるようになったことで、プーアル茶の持つ健康機能に注目が集まり始めたのです。
特にコレステロールや中性脂肪を下げる効果は重要視され、ダイエットのためにプーアル茶を飲み始める人も多くなりました。
プーアル茶ブームは中国政府をも動かし、プーアル茶は地理標識保護製品(地域ブランドの1種)に昇格し、その製茶工程は国家無形文化遺産に指定されました。ブームが最高潮に達した2007年には、プーアル茶のふるさと雲南省思茅市が、プーアル(普洱)市と改名されました。
ブームはプーアル茶需要を爆発的に押し上げ、その名を広めましたが、同時に茶葉の価格高騰なども招きました。2008年以降、ブームが沈静化するとともに茶葉の価格も適正に落ち着き、以降は良質な茶葉を手に入れやすい価格で買うことができるようになりました。
第1次ブームはこうして去ったプーアル茶ですが、2012年後半から、今度は古茶樹プーアル茶人気が高まってきています。使われる茶葉は樹齢100年以上の喬木古樹に限られる稀少茶葉で、これもまたビンテージ感の高いお茶と言えるでしょう。
プーアル茶ブームに触発されて変化した黒茶事情
プーアル茶ブームは、それまで決まった土地のみに流通していた他の黒茶の状況にも影響をもたらしました。辺茶というイメージを脱却し、都市部のお茶取り扱い店にも黒茶が並び、販売されるようになりました。
2010年に開催された中国の茶博覧会にも初めて黒茶が出展され、その変わった形や独特な品揃えが人々の目に留まり、以後取り扱い量も増えていきました。湖南省の黒茶ブースは回を重ねるごとに拡大していき、会場の大半を占めるほどに大きくなると、当然ながら注目度も高まりました。
辺茶の約4割を占める四川省の康磚茶、金尖茶などは、主にチベットなどで消費されていたため、チベットの中国名「西蔵」を冠して「蔵茶」、英語では「Tibetan tea」と呼ばれ、海外でも名を広めることになりました。
また、雅安蔵茶の製造方法は、国家無形文化遺産に指定され、他の黒茶の地位も上がり、湖南黒茶、広西六堡茶、湖北青磚茶などは、地理標識保護製品(地域ブランドの1種)に指定されました。
復活する黒茶のバリエーション
黒茶が知名度を得、流通経路が拡大される中で、黒茶のバリエーションにも変化がありました。長い歴史のうちに消えてしまった黒茶の復活です。
花巻茶の復活
湖南省の「花巻茶(はなまきちゃ)」は、千両茶とも呼ばれる伝統的な黒茶でしたが、製造工程が全て手作業で手間がかかることや、形を整えた後の自然乾燥がネックになり、夏にしか生産できないこともあって1958年には生産停止になっていました。
花巻と言う名ですが、荷馬の両側に1本ずつ下げて運ぶように作られたため、形は丸太のような形であり、1本が約36kgとかなり重いものです。生産停止になった後は、代替としてレンガ型の「花磚茶(はなたんちゃ)」が作られるようになっていました。
しかしながら、花巻茶の潜在需要は残っており、復活を望む声に応える形で2000年前後に再び生産されるようになりました。
形なども独特で目立つ花巻茶は、復活後は湖南省を代表する黒茶となり、お茶の展示会などには常にメインとして出品、展示されています。また、その製法も、同じく湖南省の「茯磚茶(ふくたんちゃ)」ともども中国国家無形文化遺産に指定されています。
涇渭茯茶の復活
現在は湖南省で作られている茯磚茶には元となったお茶があります。「涇渭茯茶(けいいふくちゃ)」と呼ばれ、陝西省の涇陽で1368年前後に開発されたお茶です。
600年の歴史を持ち、製造工程の中で茶葉が金花と呼ばれる黄色い粉をふくのが特徴であり、「茯茶」の名は、このお茶を作るのに一番適していたのが、三伏の時期(夏の暑さが一番厳しい時期)であったことから、「伏茶(茯茶)」と名付けられました。
製造加工は陝西省涇陽で行われていましたが、茶葉は湖南省産のものが使われていたため、茶葉の輸送に少々手間がかかっていました。1951年、政府の命により、茶葉の産地である湖南省で製造加工までを行うことになり、涇陽での茯茶製造はそこで一旦終わりを告げました。
引き続き、湖南省で茯茶の流れを汲んだ茯磚茶が作られ、涇渭茯茶の伝統的な作り方は消えようとしていました。しかし、近年になってそれが復元され、再び話題となりました。
需要増とともに洗練され進化する黒茶
中国国内における黒茶の需要は高く、湖南省や湖北省、四川省、雲南省、広西区などの産地には、計25か所ほどの政府指定の生産工場があります。
中国の人々にとって黒茶は日常生活に密接な関わりのある大切なものですが、特に需要が高い新疆ウイグル自治区では、その設立30周年記念に、政府から黒磚茶が1人1つずつ配られたことがあるほどです。
黒茶の主消費者でもある少数民族の人々は、多くが遊牧民として辺境地域に暮らし、それぞれの生活様式を守ると同時に、それぞれの黒茶の伝統的な形も守ってきました。
しかし、黒茶の消費地拡大や少数民族の人々自身の暮らしも変化してきたこともあり、近年では現代の暮らしに合わせた新しいスタイルの黒茶が開発、販売されています。
変化として一番顕著なのは、その形の変貌でしょう。ほとんどが団茶、餅茶のように茶葉を固めて作る緊圧茶である黒茶は、それぞれに決まった形を持っていましたが、伝統的な形のままでは少々大きくお茶として入れにくいため、1回分(5gくらい)のミニサイズが作られるようになりました。
入れやすさ、飲みやすさを考慮した商品は他にも、ペットボトルやティーバッグ、果ては粉末にしたインスタント黒茶までもが登場しています。また、塩などで味付けした黒茶も売られていますが、これは少数民族の人々が好みに合わせて味付けしていたものをそのまま製品として売り出したものです。
外見的にも高級感を出したものも作られるようになりました。香りに工夫をしたり、包装を美しくしたものや、押し固めた後に美しい紋様を刻み込んだ品も登場し、こちらは食品を超えた芸術品として集めて楽しむコレクターもいます。
黒茶はそのままでも栄養豊富なものですが、そこに漢方薬を加えたり、西洋ハーブを取り入れたりして、更なる健康志向を追求した製品も出ています。製品自体の工夫や、販路・消費地の拡大などにより、黒茶の生産量は上向きとなっています。
日本中国茶協会によると、2016年度には黒茶の中国国内総生産量は約36.5万tに達し、前年から20%以上の増加となり、中国の全茶類の中でもトップの増加率となっています。今度はプーアル茶のみにとどまらない黒茶ブームが到来するかも知れません。